テツモグラはいつももがいてます

はてなダイアリー「鉄道旅行とは巡ること」からの移行ブログです。鉄道を含む交通機関関連がメインだけれど実際には雑多ネタ。

笠覆寺(笠寺観音)と泉増院に祀られた玉照姫

この話はここでもう止める。

昨日(9月15日)、笠覆寺と泉増院の2か所に玉照姫の像がある件、そして笠寺観音ホームページにて「笠寺観音笠覆寺でない寺社及び事業所で玉照姫を祀っていても、笠覆寺は一切公認も関知もしない」と書かれている件について、何か手掛かりがないかと愛知県図書館まで行った。
館内の資料検索端末で「笠覆寺」をキーワードに資料検索を試みると、以下の3冊が閲覧可能であることが分かった。

書名 出版者・著者 出版年月 背ラベル記載の分類番号 所在場所等
「笠寺聚芳」 笠覆寺 1935年4月 A185 リ2 閉架書庫
笠寺観音と玉照姫 天林山笠覆寺 小川金雄 1993年10月 A185 オガ 地域資料コーナー
「笠寺出現宝塔絵詞伝」名古屋市博物館資料叢書 名古屋市博物館(高力種信・著) 2005年3月 A185 コウ 地域資料コーナー

1番目の本は出版年があまりにも古すぎる(昭和初期の発行)ため外した。残る2冊を探して隅から隅まで目を通した。
しかし、手掛かりはなかった。
1番目の本を資料請求して読むしかないのだろうか? それともいっそのこと、笠覆寺で確認するか? いや、もうやめておこう。
私は笠覆寺や泉増院に関わりのある立場でもなければ、笠寺地区の住人でもない。
まったくのよそ者が宗教が絡む問題に首を突っ込めば、とんでもない騒動を引き起こすことにもなる。
だからここで「やめ」にする。今後、この件に関して私は黙っておくことにする。


ただ、これだけははっきりさせておかなければならない。

  • 泉増院には8年毎に開帳される「玉照姫座像」がある。上記2の書籍では、明治15年(1882年)に泉増院に(座像を)移したとあるが、笠覆寺公式ホームページには「明治に入って兼平公・玉照姫の御堂は壊され、かなりの数の尊像や宝物等が散逸した」としか記載されていない。
  • 笠寺観音笠覆寺)には玉照姫と夫である藤原兼平公の位牌がある。最近になって兼平公と玉照姫を新たに祀る御堂を建立した。「今でも兼平公と玉照姫はこちらで御祀りしている」とホームページに明記。
  • 笠寺観音笠覆寺)公式ホームページには今も、「当寺(笠寺観音笠覆寺)以外の寺社や事業所で祀っている『玉照姫』に関して、当寺は一切公認も関知もしない」と記載されている。

泉増院は「笠寺十二坊」の一つ、泉増坊が改称されたものである。それを前提として「泉増院も笠覆寺の境内に入る」とするなら、上記三つ目の「公認しない玉照姫」とは、泉増院も笠覆寺も関与しない何物かが勝手に祀った「玉照姫」ということになる。しかし、ならば笠覆寺がホームページ等でその事件について公表すればいいのだが、そのような記載はホームページには見つけられない。
だとすると、いったい・・・?