テツモグラはいつももがいてます

はてなダイアリー「鉄道旅行とは巡ること」からの移行ブログです。鉄道を含む交通機関関連がメインだけれど実際には雑多ネタ。

名古屋の山車はとんでもない道路を通っていく(書き直し版)

6月第一日曜の午前11時から正午までの1時間だけ、徳川園に東区内の山車5両が揃う。
以前からその話は知っていたのだが、東区の徳川園はJR大曽根駅から距離がある。ただ歩いていってもたかが知れている。ならばがんばって起きて、そして見に行ってみるか……。そう考えたのが5月末。だがこの「曳き揃え」について調べていくうちに、実は曳き揃えよりも各地区で行われる祭礼の方が面白いのではないか、と思うようになった。特に、各山車の移動経路が。
というわけで、日曜日に公開した分の書き直し版である。日曜付けとしているのは、この祭りを見たのが日曜だからで、それ以外に理由はない。何度か書き直しをしているためw、例によって検索サイトのキャッシュとは全く違うものとなっている可能性がある。その点だけはご承知いただきたい。

山車曳き揃えを見たら、古出来の山車について行け?

徳川園での山車曳き揃えに集まるのは、新出来・出来町・古出来・筒井1丁目・筒井町各地区が保有する山車、全5両。そして曳き揃えが終わると、そのまますんなり各地区の山車庫に帰るのではなく、各地区の祭礼に参加、各地区内を曳き回した上で山車庫に戻っていく。注目すべきはその巡行経路だ。いずれの山車も各地区に戻るには県道215号線を経由せねばならない。この県道、実は中央分離帯側にバス専用レーンとバス停を持つ、片側3車線の幹線道路だった。いやいや、それでも全部の山車が「県道を横断する」ならまだ理解できた。

県道を横断して南進した筒井町地区の2両を写真に収め、その後戻ってきて出くわしたのが上記画像の光景。写っているのは古出来地区と出来町地区の山車だ。新出来地区の山車は交差点を渡っている。しかしこの2両は堂々と県道215号線を、それも2車線を通行止めにして通過していったのである。山車の前後には警察官が付き、車をバスレーンへと誘導していた。
私は古出来の山車に付いていった。途中、[新出来]交差点で出来町の山車が右(南)へ向かうのを見届け、掘割となる中央本線の上を一緒に通過し、そして中央本線沿いに名古屋方向に向かって進んだ。山車はその後、中央本線を再度超えて西へ戻り、大松商店街にて新出来及び出来町の山車と合流し、商店街の端まで行って戻り、明倫公園や明倫小学校にも立ち寄って……とぐるぐると回った。
どれだけの距離を曳き回しているのか全く分からない。商店の軒先で「飲食のお接待」を受けているのもこの目で見た。各家庭からの寄付金だろうか、祝儀袋を祭り当日に関係者に手渡している光景も見た。小学校前でのからくり奉納も見届けた。新出来町(西ノ切)の山車が県道215号線に面した山車庫で保管されているのもはじめて知った。山車庫が幹線道路沿いにあるのは、若宮八幡社の山車庫だけじゃなかったのだ。気になる光景に出くわすたび、何度もカメラを向けてはシャッターを切っていた。全てが、何もかもが初めて知る「この地区のしきたり」だった。
気が付けばもう17時を過ぎていた。
なお、これは後日談だが、「山車のまち! 明倫」というブログ(http://higashinet.net/blog/takashi/)に掲載された、本祭2日間における各山車の移動経路図を見て初めて知った。新出来町の山車はこの日曜当日、国道19号線まで行って戻って、それから地区内を経由して徳川園に入っていたのだ。早朝から出かけるべきだった。くそう。

祭礼史上初、「筒井商店街の宵山2両曳き揃え」を見届けた。

当日の祭礼に話を戻す。17時を過ぎていては、どこかに行って戻ってきても中途半端だ。幸い、付近にはコンビニや弁当屋がいくつかあった。食料を調達し、一旦筒井町地区へ戻って2両を探した。既に2両とも各地区の待機場所へ移動しており、しばし休憩中、といったところだった。私は商店街角の酒屋で生ビールをいただき、ついでにこの筒井町地区の若衆が作成したというチラシをもらった。それを見て、出来町の方へはもう行かないことにした。提灯の飾り付けがほぼ終わった出来町地区の山車を撮影して、すぐに筒井町地区へと戻った。


出来町へは行かないことにしたその理由は、「宵山における筒井商店街の2両曳き揃え」が行われるからだった。チラシには「名古屋開府記念、史上初」なんて書いてあった。酒屋の店主は「夜の商店街内2両揃い曳きはやったことがない」と言っていたし、お年寄り同士が話し合っているのをそばで聞いていたら、誰かが「覚えとらん」と言っていたから、恐らく間違いないのだろう。
私はその目で、確かに見届けた。筒井1丁目「神皇車」と「湯取車」が商店街に入ると、大歓声とフラッシュ、そして拍手が起きた。その場にいたほぼ全員が後に続いて商店街の中へ。

商店街に入った2両はその後、建中寺公園前にて互いにからくりを奉納し、さらに商店街の向こうの端まで行って戻ってきて、そして曳き別れとなった。

間違いなく、それは祭礼の歴史に刻まれる新たな「しきたり」。来年以降も続けられるかどうかは分からない。個人的には続けてほしい。2年おき、3年おきでもいいから。なに、金がない? んなもん、かわむら市長に頼み込めばええがやw。


祭礼のしきたりが自分がよく知る「犬山」とは明らかに違う。恐らく清須(尾張枇杷島まつり)とも違うだろう。ちょっと尾張の山車祭りをなめてかかっていた。尾張の山車祭りは、奥が深い……。